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清雄寺 ホームページ

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〒130-0001 東京都墨田区吾妻橋2-14-6

清雄寺の沿革

清雄寺について

 文明開化を旗印にして、躍進し続けた明治時代、その時代の中心である東京において、ご弘通に奔走され、関東における佛立宗(本門佛立講)の基礎を、きづかれたのが日教上人です。 明治元年、東京は、政治・経済・文学・美術などあらゆる文明開化の中心となりました。
 当時、主に関西地方に拠点を置いていた佛立宗にとっても、この東京は日本全国へのご弘通発展において欠かすことのできない要の地として重要視されるようになっていました。明治十五年、日教上人は開導日扇聖人の命を受け上京し、そのご弘通にあたられました。そしてご弘通の拠点を本所の清雄寺におかれ、一生を捧げられ、明治時代の終わりと時を同じくして一期の化導を終えられました。
 後に、宗門の発展に大きく貢献されたとして、日教上人は『関東開発教導の師』と褒め称えられ、、清雄寺を「関東根本道場」と称するようになりました。
 関東一円はもちろん、そこから教線を延ばしていった佛立宗、日教上人なくして語れず、時は明治、人は日教上人、処は清雄寺、ここから関東佛立宗は、歩み始めて今の清雄寺に至ります。

 清雄寺は徳川幕府公認の歴代上人寺といって、代々高僧が住職を務め、明治三十二年に佛立第四世講有日教上人が当山第十八世に就任以来、関東の根本道場として、関東・東北地方に末寺十数ヶ寺を有する大本寺となっています。

 前住職当山第二十一世小山日誠上人は、佛立第二十四世講有を平成16年から24年まで務められました。
 ※講有とは、他宗で表すところの管長を意味し、併せて本山宥清寺(ゆうせいじ)(京都)の住職(貫主)も務める。

覚英山清雄寺の沿革

 本門佛立宗関東根本道場大本寺清雄寺は、江戸時代の初期、寛文(かんぶん)2年(1662年)に本門法華宗の僧、信入院日崇上人(しんにゅういんにっそうしょうにん)によって建立されました。清雄寺は出羽国鶴岡藩主酒井家の菩提寺で、徳川家康四天王の一人、酒井忠次(さかいただつぐ)氏の菩提を弔うために下屋敷のあった本所中ノ郷の土地(現在の墨田区役所付近)を寄進して建てられました。
 関東大震災後現在地に移転、現在の堂宇(どうう)は当山第二十世住職日幹上人(にちかんしょうにん)の代、昭和21年(1946年)に、前年3月10日のとうきょう大空襲によって焼失した伽藍(がらん)を取り壊し、その上に福島県から移築したもの、銅葺き屋根の総ケヤキ造りの本堂は、昭和13年(1938年)頃に福島県の山林王「松本島之助」が立てさせた建物です。
 本堂内外の見事な彫刻は、日本橋三越本店の天女像を作成した木彫界の名称佐藤朝山(後の玄々)のてによるものです。 客殿三階「鶴の間に」展示されている襖絵「海涛群鶴」は、福島では本堂内にあったもので、昭和初期、現在の東京芸術大学の創立に貢献した岡倉天心(てんしん)に見出された日本画家勝田蕉琴(かつたしょうきん)の作品。
朝山(ちょうざん)・蕉琴共に福島県出身で山林王松本家に住み込み、2〜3ねんかけて作成したと言われています。

当山墓地には、当山第十八世・佛立第四世講有日教上人(にちきょうしょうにん)、当山第二十世・佛立第十六世講有日幹上人(にちかんしょうにん)をはじめとした当山歴代住職、横綱玉錦(たまにしき)、大関九州山(きゅうしゅうざん)等の二所ヶ関部屋有縁の墓や、浄瑠璃(じょうるり)の第7代竹本土佐太夫(たけもととさだゆう)の墓などがあります。


 本門佛立宗は、日蓮聖人を高祖(開祖)とする宗旨で、建長五年(1253年)4月28日に開宗し、門祖日隆聖人・開導日扇聖人が日蓮聖人の意志を継承して本門八本所顕上行所伝本人下種の南無妙法蓮華経(ほんもんはっぽんしょけんじょうぎょうしょでんほんにんげしゅのなむみょうほうれんげきょう)の御題目を口唱折伏、経力現証によって弘通広宣し、日本全国をはじめ、アメリカ・韓国・ブラジル・イタリア・スリランカ・インド等にも寺院を有して世界各国に弘通の拠点を持ち、今日に至っています。

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本門佛立宗 清雄寺

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